私は子供の頃から「わたしのいもうと」という絵本を支持している。
私はこの本の影響で「いじめは、人間を人間扱いしない。それは殺人より酷い」という思想を持っている。
今日、Googleで同ワードを検索してみた。
すると次のブログが引っ掛かった。
【わたしのいもうと】☆☆いじめを考える絵本☆☆
http://ameblo.jp/rura-rura/entry-10527946659.html
そこの作者への手紙の紹介があった。
その手紙の内容の一部に
“差別こそが戦争への道を切り拓く”
とあった。
私はこの意見に賛成できない。
理由は”差別こそ“が、という部分が間違っていると思うからだ。
“差別『も』戦争への道を切り開く“であれば、私は首を縦に振るだろう。
なぜなら、戦争は”差別だけ“で起こるものではないからだ。
貧困、劣等感、妬み、野心、自己顕示欲、技術革新、自衛、独立心、そのどれもが戦争の要因になる。
だから「差別」だけを特権化させ、差別さえ無くせば不当な暴力が無くなるという訳ではないはずだ。
むしろ、差別は普遍的人権を守るための肯定的側面があると私は言い切る。
私たちは、日常的に差別を容認し、差別ができる環境を守ろうとさえする。
代表的なのは恋愛だろう。
ある特定の個人を特別に愛してしまう、それは差別以外の何ものでもない。
しかもそれは、外部から「こうしろ」と強制されるべきものでもない。
自由な、正当化された”えこひいき”なのである。
もし「差別せず、すべての人を同じように愛さなければ処罰する」
というフリーセックスまがいの法律があったとしたら、それは個人の自由な恋愛の権利を公の名において侵害するだろう。
また、そうした普遍的人権がそもそも差別を基にしている。
例えば、生まれたての赤ん坊は明らかに差別される。
彼らは生きるために、周りの人から世話を受ける権利があるとみなされる。
それは彼らが「生まれたての赤ん坊」という属性を持っているからである。
特定の属性を持っている人間を、有無を言わさず特権扱いするのは差別と言わず何であろうか?
「差別と区別は違う」と言う人も一定数いる。
しかし、この世には、してはいけない差別と、しても良い(もしくはするべき)差別があるだけだ。
詰まるところ、ある区別や差別を普遍的人権の基で正当化できるかどうかが問題なのである。
時々「全ての生き物にも人間と同じように権利がある」という人がいる。
しかし、人間以外に人権はないはずで、むしろ人間以外に権利があるとしたら、それは人権などと呼べないだろう。
もし「全ての生物に人権を与える」社会があったとしたら
私たちは虫も殺さない、家畜も食べない、病原菌も殺菌しない、間違って殺してしまえば、人と同じように弔う、そんな風にして生きなければならない。そんな環境で、私達は安全に生活が出来るだろうか?
江戸時代「生類憐れみの令」がその環境に接近していたが(野鳥を殺した人間を死刑にした例がある)それはディストピア以外の何物でもないだろう。
そのように、私たちは生き物を人間からはっきりと差別しなければ、大切な人権を侵害してしまう。
やはり、全ての生き物を差別せずに扱うことは、普遍的人権に対する冒涜であると言える。
また、差別は責任と切っても切れない関係である。そして、責任が無ければ、人間社会は不正まみれになってしまうだろう。
例えば、信任された議会の人間は、立法を任されている。
それは特権であるが、その特権は、選挙によって私たちが彼らを議員として差別しているからこそ、正当化されている。
そうして正当に差別されているからこそ、彼らは立法に関して責任を追うのである。
そうでなければ、国民に対する背信について彼らを問い詰めることは論理矛盾である。
しかし、法のもとに選任されていない「民間議員」には責任がない。
なぜなら選挙という正当化された差別を受けていないからである。
もし彼らが国政に口を挟み、立法を動かすとしたら、たしかに立法の権限に関して誰も「差別」はしていないが、議員信任による民主政治は消え去ったという事ができる。
(そして2017年現在の日本でそれはもう始まっているだろう。楽天の三木谷や竹中平蔵を見よ)
このようにいくつか例を出したが
一貫して、私は「差別」を盲目的に敵対視することに”ノン”である。
やはり、私たちは「人権を守るために、差別をする必要がある」ということを甘受しなければならない。
そうしなければ、私達の人生の主戦場は、専制政治や人権無視のディストピアに簡単に近づいていくと確信している。
もしも「差別を無くす」というスローガンが「心からの善意の叫び」だとしたら、そうした羞恥心のない善意に突き動かされた人々が徒党を組む時、安倍晋三も真っ青のオルタナ全体主義が生まれるような気がしてならない。
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