■ペシミストじゃない大人は馬鹿か?
ねじまき鳥クロニクルを読んでいる。
笠原メイが言う。
“もし私がペシミスティックだとしたら、ペシミスティックじゃない世の中の大人はみんな馬鹿よ”
この一節を読み、久しぶりに悲観主義と楽観主義の対立の構図が胸に浮かんだ。
今となってはその対立を克服したつもりだが、若い頃は『自分が悲観主義者なのか楽観主義者なのか?これから生きていく上で悲観主義者であるべきか?それとも楽観主義でいくべきか?』という問題を必要以上に気をかけていたような気がする。
しかし今はどうでもいい。現在の私は「世界観の形成には2つの見方を使いこなすべき」と結論している。
■楽観的に見るべきか?それとも悲観的に?
世の中はコインの裏表のように、あらゆる事象に良い面と悪い面がある。
極論を言えば、国家の武力衝突にも悪い面、良い面がある。
言うまでもなく、武力衝突によって一般市民の人生と生命を抹殺することは「悪の側面」だ。例えば、日本軍による非戦闘員の虐殺や、原子爆弾による非戦闘員の殺傷は、言うまでもなく人類史上の恥部である。悲劇的なのは、それらの国家の横暴は、肥大化した権力を人民が止めることは叶わなかったということだ。
つまり「人権侵害を国民一同で防ぐ」という集団的自律の力が負けたと言い換えることもできる。しかし、ナチスや特攻隊といった、集団的自律から千里離れた横暴が発生している時、もはや国家の内側からそれらを止めることは不可能に近い。(なんせそのような状況では国家が国民を支配してしまっているのだから)
そのような悲劇を終わらせる側面が「武力衝突」にはあるといえる。
例えばナチスや特攻隊、クウェート侵攻がこの世から消え去ったことは明確に戦争の「良い面」だ。武力衝突がなければ、それらの目を覆いたくなるような巨悪は、さらなる猛威を振るっていたことだろう。
そのように、集団による継続的な人権侵害を外的な暴力によって強制的に押さえ込むことはあり得る。つまり武力衝突にも善悪の両義的な側面がある。
次に「お金」を例に出そう。
資本主義社会では、お金の有無で人生の質が決まってしまう。(新自由主義者や根性論者は『貧しいのは努力が足りない』で一蹴するが、それは現実の認識として正しくない。貧困の生産構造を無視している)
富裕層の家に生まれた子供は、比較的金銭には困らず、衣食住がほとんど保証されている。
しかし貧困状態に生まれたらそれが難しくなる。子供は洋服も満足に買ってもらえない、栄養の偏った状態、という状態が多々ある。
こうした不平等、不公平はお金のシステムが下支えしている。これは「お金」の「悪い面」と呼べる。
しかし、もし「お金」がなかったら、私たちは原始共産制や物々交換の時代に戻る。
我々が享受している利便性は著しく損なわれる。必要なときに必要な物資やサービスが手に入らず、借金で現状の不足を融通させることもできないだろう。そして、財産を蓄えておくことも困難になる。
「お金」はその不可能を可能にし、現代社会の利便性を支えている。
これが、反証的に説明した、お金の「良い面」である。
2つの例を提示したが、どちらの概念も悲観的に捉えることもできるし、楽観的に捉えることもできる。
そして、現実の問題に直面した場合、そのどちらの認識も必要だろう。
まして、その両面を「片方の側面だけ認識すべき」と他者に強要することなんてできない。
成熟した人間というものは、それらの両面を受け入れつつ、当為の問題に立ち入ろうとするだろう。
■「べき」の問題へ
結局のところ、「暴力」や「金」にも善悪の両面がある。
必要なのはそれらの概念を「どう使うか」ということ、つまり「べき」の問題である。
この問題の成立には前提条件として、正しい認識が必要である。
その正しい認識についても、楽観的にも悲観的にも物事を捉える必要がある。
楽観的にものを見ることとは人間生活を豊かにする鍵であり、悲観的にものを見ることは災難や人権侵害を防ぐ鍵である。
例えば「包丁で料理を作り人々を楽しませること」と「包丁で通りがかりの人の心臓を一突きすること」という行為を「あるべき」「許すべき」かどうか考えるためには「包丁で料理をすることができる、包丁で人を殺せる」という正しい認識がなければならない、といった具合だ。
それらの正しい認識のためには、包丁を両義的に見なければならない。
包丁の良い面 →料理を作ることが出来る
包丁の悪い面 →人を殺せる
といった具合だ。
どちらか一方の認識が抜けたなら、包丁を使った美味な料理は作られないし、通りで包丁の刺さった死体が転がるのである。
この両側面を認識しなければ「我々は包丁をどう使うべきか?」
という問題に対処できない。
■傾向は偏ること無く
つまり人間が当為の問題に立ち向かうとき必要なのは「楽観主義が良い」「悲観主義は大嫌い」などという好き嫌いの次元に留まることではない。
必要なのは、常に楽観と悲観を行き来することだろう。
物事の「良い面」を活かすために、「悪い面」を認識しなければならない。
武力衝突であれ、金であれ、包丁であれ、一つの悪や一つの善を本質と捉え、そこに留まり続けることは、その概念の特権化につながるだろう。
そうして概念がドグマ化された瞬間に「ラディカルであることを至高とするラディカリズム」へ陥るはずだ。
例えば、右翼だろうが、左翼だろうが同じ次元の話だ。
「戦争は至高だ!戦争しろ!」戦争を肯定するのも
「戦争は最悪だ!戦争反対!」と否定するのも
同じラディカリズムに陥っている。
人権を無視した暴力も、自衛権を無視した戦争放棄も同じレベルで盲目だ。
結局のところ
「べき」を語る前に「良い面」「悪い面」をどちらも認識できる人間に私たちはならないといけない。
他者を「ネガティブすぎ」「お花畑」と煽ったりせずに。
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