「登山でも人は死ぬ」それが何の反論になる?

「登山でも人は死ぬ」で、だんじりの事故を擁護した気になるな

まず、こちらの動画を見てほしい。

だんじりによる家屋や道路設備の破損として紹介されている、5件の投稿だ。

① 家屋

② 電柱

③ 信号機

④ カーポート

⑤ ポスト

だんじりの事故が批判されると、
「登山のほうが人が死んでるぞ」
「だったら登山も禁止しろ」
と言い出す人がいる。

それで何を反論したつもりなんだろう。

登山の死亡者数が多かったとして、それでだんじりの安全性が上がるのか。
家にぶつかる危険が消えるのか。
沿道の人を巻き込む心配がなくなるのか。

何も変わらない。

ほかにも危険なものがある。
だから、この危険を批判するのはおかしい。

そんなアホな理屈が通るなら、世の中の安全対策は全部止まってしまう。

そもそも、参加者本人が危険を承知しているとしても、その了解が沿道の住民にまで及ぶわけじゃない。

自分の意思で祭りに参加している人と、家がたまたま通り道にある人。

そこを一緒くたにして「本人たちが好きでやってるんだから」で済ませるのは無理がある。

家の持ち主まで、壊される危険を承知で祭りに参加していることにはならないだろう。

自宅のカーポートが壊れたとして、
「でも登山のほうが人は死んでますよ」
と説明されたらどう思うか。

知るか、こっちのカーポートの話をしてるんだよ。

となるに決まっている。

この話には、そういう当たり前の感覚が抜け落ちている。

もちろん、登山だって安全対策を求められる。

無茶な計画や装備不足を指摘されたときに「だんじりでも人が死んでる」と返したところで、何の説明にもならない。
同じことだ。

死亡者数で比較したいなら、参加者数や実施時間、どんな条件で起きた事故なのかも考える必要がある。

人数だけを持ってきて、多いほうが存在するから少ないほうへの批判は無効、というのは雑すぎる。

仮に事故率をきちんと比べたって、対策できる危険をそのままにしていい理由にはならない。

それなのに、安全対策の話をすると、すぐに「じゃあ全部禁止しろってことか」と話を広げる。

速度を落とす。
危険な曲がり角の通り方を変える。
観客との距離を取る。
中止する条件を決める。

事故が起きたら原因を調べて、次の運営に反映する。
検討することはいくらでもある。

こうした改善を求める声に「登山もやめろよ」と返しても、何一つ答えたことになっていない。

「伝統だから」という説明も、それだけでは足りない。

長く続いてきた祭りを大事に思う気持ちは分かる。
でも、住民から「家にぶつけないでくれ」と言われたとき、何百年続いているかを答えても仕方がない。

どうすればぶつけずに済むのか、その話をしてほしい。

事故を指摘する人に噛みつく前に、安心して続けられる運営を考えたらいい。
好きな祭りなら、なおさらだろう。

「登山でも人は死ぬ」なんて言葉で得意になっても、壊れた家は直らないし、次の事故を防ぐ手立ても増えない。

ほかの場所の死者を数えて勝った気になる前に、目の前の危険に答えてくれ。


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